富める貧者の国
- 作者: 佐和隆光,浅田彰
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2001/02/01
- メディア: 単行本
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さらにボードリヤールは次のように言う。「国が豊かであるためには、まず一人一人の個人が豊かにならなければならないという欧米的な理想主義とは違うモデルがあるのだろうか。個人が組織の細胞の一つのようになって自己を主張しないのだとすれば、それは社会のシステムの前近代性が土台にあるのではないか」と。
改革は必ず痛みを伴います。具体的に言えば失業とか倒産ですね。制度や規制には必ずそれを利用する何らかの既得権益が付随していますから、制度を変えようとすれば、必ず既得権益を有する企業や個人が損失を被ります。(中略)ただし、政府は何もしなくてもいいと言うわけではない。
視点をやや広げると、九十年代は「相対化の時代」だと見ることが出来るでしょう。まず、八十九年にベルリンの壁が崩壊したのをきっかけに社会主義が相対化されてしまった。また、九十七年十二月に京都会議があり、先進三十八カ国に対して二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの削減目標を義務付けた。これは正しく産業文明の相対化に他なりません。
フランスの社会党は、市場経済はイエス、市場社会はノーという言い方をしています。リストラで首切りを進めた挙句アノミーになってもいいかというと、そうではない、文化に根ざした社会的な安全網がなければいけない、と。
ただ、限られた仕事をシェアすることで、より一層の所得よりは、より一層の自由時間を望むという人が増えています。そうすると、全面的に会社に帰属するのではなく、同時に家族にも地域社会にもクラブにもコミットするという多重帰属社会になります。
ドイツでは、例えば風力発電による電気を買うと、普通の電気よりずっと高いけれど、それを買うことが自分なりのコミットメントだから、みんな進んで買うわけです。
今までは、国がくれる予算は無条件でもらってきた。でも、これからはいらないものはいらないと言えなければならない。
僕がこういう提案をすると、「知事がそんな細かいことを」と言われがちです。でも、今のような時代には、ディティールにしか真実は宿らない。ディティールにしか改革は宿らないんです。